蒲鉾歴史を良く人に聞かれます。既に発刊されている文献をそのまま転載します。
吉見史伝(昭和60年)より転記(原文そのまま)
初代 市村清記回顧談
吉見蒲鉾の沿革に付いて私 市村の記憶をたどって、記載して見ることに致します。私の記憶では、吉見の蒲鉾の始まりが、大正十、十一年頃であったと思います。
現在の東本町の船越屋さんの市道に面した所に、間口5間、奥行き二間くらいの小屋風の家が建っておりました。
その所で、岡山圭造様が小さい餅臼で、魚の身を、練っているのを、見たのが初めてで、余り永くは続かなかったように思います。
その後、1,2年してから、現在の岡田屋旅館の前身で3/4が米屋をして居ったと思います。
その人は、杉原音三郎さまであったと記憶しますが、其の1/4の広さで市道筋側間口2間、藤田呉服店側に沿って5、6間くらいと思いますが、その時の人は、中井清造様と言っておりました。
その人がす巻を枠に掛けたのを、蒸釜から出していたのを見たことがあります。
その時分が、大正十二、三年頃と思います。
それから2、3年後に西條(現在の西本町)吉本ツウ様が自宅で蒲鉾を始めたのを覚えています。
そのころ吉母浦で村田鹿造様が、蒲鉾を造っては吉見に持って来て売っていましたが、その後一家を挙げて吉見に移って来ました。
昭和三、四年頃には、吉本ツウ様の蒲鉾製造は、大分、盛んであったと子供心に、見ておりました。その当時、村田様は非常に苦労なさっており、吉本ツウ様は、女親分のような気持ちの方で、村田様の苦労を見るに見兼ねたのか、また、自分が素人であり、村田さんは蒲鉾で苦労をされた人です。
ここで両家が合同して蒲鉾製造にあたり、これが、吉見蒲鉾として始まりであります。
その時始めてプロペラ式で臼のレンゲに替わる所が電動機モーターで臼のプロペラが回るようになって、職人の労力が、非常に楽になったと思います。
それ迄は、大きなかがちに、魚の身を手回しの肉挽機で、ソーメン状にしたものをそのかがちに入れ、塩を混入して大きな長いレンゲで三人の男がこねておりましたが、それが電動機によって、臼の肉や肉挽機も、皆、ベルトで回るようになり、その頃が昭和五、六年頃であったと思います。それは一大革新でありました。
その頃は、田舎の麦わらを出荷してもらい、ほとんど、す巻ばかりでしたが、ぼつぼつ上方、大阪方面より職人という人が流れてくるように成り、板付蒲鉾が始まりました。
当時、流れ職人の姿は、法被(はっぴ)にメリヤスパッチに本ネルの腰巻・高下駄をはき、念のいった人は鉢巻までしめて、流れ流れ足袋をしていました。
売り場は、下関市「余山市場」と言っておりました。
現在の唐戸公園から市庁舎の前の舗道にかかるくらいの区間が当時の余山市場であったと記憶します。
合同仕事というものは、利害関係が伴ってか、二、三年で別れたと思います。
吉本ツウ様は、自宅の合同した位置で、村田様は現在の漁業組合の前で、堀本様の家を買われ、そこに新築して蒲鉾工場兼、自宅として製造を始められましたが、その時は、臼も三本レンゲでその当時の最新式の機械でありました。
昭和九・十年頃には、余山市場が唐戸市場に変わって行ったと思います。
吉見蒲鉾も村田様は、段々に発展して行き、吉本ツウ様は年齢的に続けて行くことが出来ず、当時職人として来ていた馬場松一様が受け持って続けて行くことに成りました。販売は村田様、馬場様も、唐戸市場での販売でありました。
記憶を後に戻して私、市村が十八の時(昭和九年)村田様の所へ見習として一年余りおりました。
その後、馬場様の方へ行き(その当時は馬場様をたよって職人が流れ込んで来ておりました)その人達は、一人一人の特徴がありまして、色々仕事を覚えるのに、好都合でした。
同時期に佐々木様、後藤様も始められたと、記憶しています。
佐々木様は、す巻で後藤様は厚焼を造っておりました。