私、市村は、馬場様の所へ一年余りおり、腕も大分上達したという惚ぼれから大人数の所で競争で仕事がしてみたく、下関唐戸に、神村という製造会社があって、人数も三、四十人いて蒲鉾製造では、その当時は、大工場でありました。
その大人数の中でいきなり四人組で、俎(まな)板に着くことは、人から腕を見とめられていた現れで、本当に嬉しかったです。
先輩からも大変に可愛がられ、皆良い人達ばかりで、会社社長さんや、奥さんの教育が「良かったな」と、思い出されて来ます。
そのうちに私がどうなっていたか、はっきり記憶がありませんが、神村様の所でどのくらい、やっかいになったのかは定かでなく、岬之町の廣喜屋さんで仕事をするように成り、廣喜屋さんも下関では、大きな蒲鉾屋さんでありました。
そこでまた、友達も出来、後に、市村自宅で製造をはじめた時には、その友達が皆、入れ替り、立替り、加勢をしてくれました。廣喜屋さんで一年ばかり辛抱した時分かと思いますが村田様から「帰ってきてくれないか」と要請がありまして、廣喜屋さんの御主人に訳を話し、暇をもらい、元の古巣、村田様の所へ帰ってきたのであります。
その当時、月給を三十円もらいました。(昭和十三年 二十一歳頃)私にとっては、忘れることの出来ない想い出でありました。
昭和十三年(五月か六月)私、市村も蒲鉾を始めることになったのであります。
その当時ベルトが三吋三プライが一尺二円くらいであったと思います。
中古品の擂潰機(石臼)が、いくらであったか、記憶にありません。
どうにか、蒲鉾製造の工場として、形が整い、下関廣喜屋の御主人の心配で、鮮魚仲買人もきまり、家族で製造を始めました。
その当時、吉見では、村田、馬場、後藤、佐々木、市村と五件になりました。
昭和十四・十五・十六年と、だんだん北支の雲行きが悪くなり原材料の統制がきびしく個人個人の製造が難しくなってきました。
その時、吉見の業者をリードして企業合同に持って行ったのが村田鹿造様であります。
その当時、小串に、牧様、高水様と業者が二軒ありその人達もふくめて、村田様の所で企業合同での仕事を始めました。物資不足での蒲鉾は、売れて売れて造りきれない程でございました。
戦争もだんだんきびしく、吉見、小串の企業体の中からも徴用され私もその線にもれず、昭和十七年、光海軍工廠に徴用されたのであります。
終戦後、私も本職にかえるべく、昭和二十三年五月頃、五名の協同出資で吉見水産加工所として、蒲鉾を自宅で始めることになりました。
その当時は、すべての物資が統制下にあり、鮮魚も大和町魚市場より、五個・七個・十個と配給を受けて帰りそれで仕事をしていたのですが、それにも闇が手伝って、皆、それなりに、仕事は、出来て居りました。
私が始めた頃には、吉田様、馬場様、後藤様、佐々木様も同じ頃に始めたと思います。
その後一、二年の後、松本長五郎様が始められ、続いて芝田様、長尾様、奥野様が少し遅れて、杉原様と合同で始めたと思います。
続いて、金田、中原、福光様も合同で始め、二、三年後に、別々の企業となりました。
昭和三十七、八年頃には、大西、河野、橋本様と業者もふえて十五軒を数えるようになりました。
そのころは、魚も自由に入るようになり、下関魚市場より仲買を通して、買い受け、各々自家用のオート三輪車で、自分の工場に運び、早朝二時には、製品を唐戸に運び、届け、車は、大和町に魚を積みに行きます。
各工場とも、朝鮮動乱後の景気上昇に乗って、各工場とも景気良く、繁盛しておりました。
吉見蒲鉾の歴史(3)へ続く